昭和43年11月29日 夜の御理解
七十六節に、人間は人を助けることができるのはありがたいことではないかと。人間は人を助けることができる。人を助けるということは、色々、おー、あると思われます。それから、その前の、七十五節には、それとは反対に、人を殺すというが、心で殺すのが思い罪じゃと、言う風にございますね。人を殺すということ。それから、人を助けるということ。もうここに、いー、信心の、おー、世界というか、人を助けるということ。おー、もうこれは、誰が考えたって、人を助けるほうの働きをしなければ、あー、おかげは受けられない。徳は受けられないと思うんですよね。ところが、はたして、なら、私たちが、人を助ける働きをどれだけしておるだろうかと。または、人を殺すようなことが、あー、あってはいないだろうかと。
えー、今日、おー、星野教会の、おー、御大祭でしたから、えー、こちらから、若先生、それから、松栄会の方達が、んー、麻生さんと、信司さんと二人でお供してまいりました。それで、善導寺からも、親先生、それに、総代さん方が行っておられるそうですが、今日はあの、鳥栖からも見えていなければ、北野からも見えてない。お互いもう、この、出社関係だけは、あ、まあ、いわゆる、弟子兄弟ですから、あー、行ったり来たりしようという事になっとったらしいんです。ところが、もう、星野はもう、欠かさずその、鳥栖んでも、星野にでも、北野にでも行くわけですけども、今日は、鳥栖からも来てなからなければ、あー、北野からも来てなかったというですね。それこそ、もう、池上先生はあんまり、あー、感じられないほうですけれども、今日は、もう、それが非常にこう、まあ、お祭りに先立って、まあ、見えとらんということがもう、もやもやされとらんごたるふうだったそうですね。あ、北野も、何とかで見えんという。鳥栖も、そう。あ、そうですかと言うて、まあ、その、心がもう、お祭り前に真っ黒なっとる。私は、ほんとに、まあ、祭主は、お母さんが仕えられましょうけれども、ま、中心になって、あの、お祭りを仕えられる。その、お祭り前に、例えばあの、池上先生の心の中が、真っ黒なったということは、もう、すでに殺したことだと思うですね。その、真っ黒なった人がお祭りを仕えるのですから、そこに、御神縁を頂いておる信者達の上にでも、私は、それが響かんはずはない。例えば、殺さんにしても、怪我ぐらいさせるだろうと、私は思わせていただくが、まあ、殺すということは、こうして、例えば、勝彦が申しておりましたが、とにかくもう、家やらはね。星野やらはもう、とにかく、かーる見られとるとやから、もう、こっち達は、来て貰わんなら来て貰わんが、返って良かていうふうに思おうけれども、ま、そんなわけに、星野にいかじゃったじゃろうと言うてから、話しておりましたがですね。その、人を軽く見るといったようなことが、もう、すでに心で人を殺すことになるですね。自分は力がない。自分は、もう、つけ込まれとる。と、例えば、思うだけでも、もう、心を傷つけておるわけですからね。心を真っ暗にするといったようなことは、私は、もうすでに、心を、人を心で殺しておるというような感じがします。これじゃあ、例えば、殺すほうは、本当なおかげは頂ききるまいと、私は、思ったんですけどね。ね。だから、あの、いわゆる、信心の世界には、人を助けることだけしかないように思って、また、そういう働きをしておると思うけれども、反面に、そういう風にして、人を傷つけてり、殺したり、なら、人を軽う見るといったようなことですらもですね。あの、ある場合には、殺すようなことにすらなるのですから。ほんとにあの、心がけにゃならないことだと思うですね。またあの、人間は、人を助けることが出来ると。これはあの、信心のない方、ですあの、熊谷さんの、おー、長女が、あー、吉井の、お医者さんに嫁入っておられます。ところがその、おー、お友達が福岡におられるそうですが、あー、白血球病でですね、もう、医者は全然見離してる。もう、死を目の前に控えたというような人に、その、お見舞いに行ってからですね、あまりにその、嘆かれるのでですね、その、自分な信心しよらんばってん、あの、ちょうどその、行ったときにですね。創価学会がその、進めきとったそうです。もうその、もう、もうにも行きかけそうにある病人を捕まえて、もう、こうやっとるからね。あなた方が、幾ら言うても同じことですよて。この人はね、金光様の信心しよりなさいますから、絶対しなさいませんよち、その、自分もしよらん、この人もしよらないけれども、そう言うたんだそうです。そしたらその、引き上げていったち言うわけです。もうおかげで助かったち言うて、喜ばれたそうですがね。まるきり、創価学会は、殺しきとるような事ですよね。それでその、それは嘘でも、その、金光様の、この人は信心してあるから、絶対、創価学会には入りなさらんですよて、私も、金光教の信者ですと、こう言うた手前にですね。帰ってからすぐその、んー、熊谷さん所に行かれてから、御神米はなかじゃろかと言うて見えた。ちょうど、熊谷さんはおられなかったから、あの、娘さんの洋子さんが、あの、探してからですね。探してからって言うが、立派な御神米入れに、御神米を一体、入れてからその、渡したそうです。ま、後から聞いたところによると、まあ、洋子さんが、おかあさんから頂いておるその、御神米の新しいのに、一体入れてあるのを、それをそのまま、姉さんに上げられたわけです。それでその、吉井の姉さんは、それをですね、とにかくあの、母から聞いておる話を、もう、いっぱい便箋に書いてから、それを送られたちいうんです。ところがその、昨日はその、お礼が来てるわけなんですよね。もう、そのお礼がですね。そのもう、ほんとに私はこれで、もう、助かるかも知れんて。それこそ、暗夜に光明とはこのことじゃろと言うてその、喜んできてる。ね。あのー、人を助ける働きというのはね、私は、そういうような事だと、こう思うのですよ。ね。それでまた、ここを、詳しく、この御理解全部頂けば、また色々、意味の深いことでございましょうけれども、私は、ここへちょっと、こう、教典を開かせて頂いたら、人を殺すということが、んー、心で殺すということが思い罪じゃと仰るような、こういう思い罪を重ねよってですよ。例えば、その人が助かる筈はない、その教会にゴヒレイの立つはずはなかですよね。これはもう、人のことじゃない、こちらだって、私共だって、それを思わなければいけない。人の心を真っ黒するようなことは、もう、殺すと同じこと。そのなかにも、人を軽う見るといったようなことがです。如何に、その人を殺すことになるかという事。次には、あー、五十、七十五節と七十六節と並んで、冒頭に、人間は人をたすけることが出来るのは有難いと心得てと、こう言うてられる。ね。殺すということと、または、助けるということの働き、どちらをたったが良いかということは、こらもう、赤子でも分かる話なんです。ね。殺したら重い罪になることは分かりきってる。助けりゃ、人が喜ぶ、神様が喜びなさることは、分かりきってる。ですからその、分かりきってることをです。私共は、修行によって、いよいよ、それを、本当に、人が助かることのための、んー、働きだけが出来るおかげを頂かなきゃならん。そして、私共の、心の中に、また、取らせて貰う態度の中にです。人を傷つけたり、または、殺したりするような、いわゆる、言動ですね、言う事、動きのことの上においてもです。ね。このことを改めていかなきゃならんかという事を感じますですね。その二つの話の中から。どうぞ。
中村良一
2005年5月8日